午後4時半――イレーネは『デリア』のホームに降り立った。「う~ん……快適な汽車の旅だったわ。やっぱり二等車両は座り心地が違うわね。切符を手配してくれたリカルド様に感謝しないと」帽子をかぶり直したイレーネは、ホームに停車している汽車を見て嬉しそうに笑みを浮かべる。「でもこんな贅沢、私のような者には身の丈が合わないわね。1年後、ルシアン様と離婚したら質素倹約に励まなくちゃ」結婚生活が始まる前から、既に離婚後のことを見据えていたのだ。「さて、では行きましょう」イレーネはキャリーケースを引きずりながら、改札を目指して歩き始めた。**「う~ん……迂闊だったわ……そう言えばこの駅は階段を上らないと、外に出られなかったのよね……」じっと階段を見上げるイレーネ。手元には二つのキャリーケース。とてもイレーネの細腕では二つの荷物を持って、上ることは出来ない。「……仕方ないわ。一つ残しておいて、階段を上るしかないわね……」ため息をついたとき、背後で声をかけられた。「お困りですか? よければ荷物をお持ちしますよ?」「え?」その声に振り向くと、白髪交じりの男性駅員が立っていた。「よろしいのですか?」「ええ。ちょうど駅員室に戻るところだったので」そして男性駅員はキャリーケースを2つとも、持ったのでイレーネは慌てた。「あ、あの。一つだけで大丈夫ですので。後の一つは自分で持ちます」「いいえ、見たところ女性が持つには大きすぎる荷物ですよ。私が持つのでどうぞ階段を登って下さい」「そうですか? それではお言葉に甘えて……ご親切にありがとうございます」イレーネは礼を述べると、階段を登っていく。そこを後ろからキャリーケースを持った駅員がついていった。「荷物を運んで頂き、ありがとうございました」階段を登り終えると、イレーネは礼を述べた。「いいえ、お役に立てて良かったです」「あの……図々しいお願いとは思いますが……もう一つ、お願いしてもよろしいでしょうか?」「はい、何でしょう?」「電話をお借りしても良いでしょうか?」イレーネは恥ずかしそうに駅員に尋ねた――**** 駅を出ると、イレーネはため息をついた。「それにしても、リカルド様が電話に出られなかったのは残念だったわ……というか、何故誰も電話に出なかったのかしら……?」イレーネは何も知らなか
17時少し前に、イレーネを乗せた辻馬車がマイスター家に到着した。「お客様、マイスター家に到着しました」男性御者がイレーネに声をかけてきた。「はい、どうもありがとうございま……」そこまで言いかけて、ハタとイレーネは気付いた。(そう言えば、つい先日貴族の御令嬢に言われたばかりだったわよね……)イレーネの脳裏に赤い髪の女性……ブリジットの言葉が蘇る。『ちょっと、ここはあなたのような身分の者が気安く出入りしていい場所じゃ無いわよ? 入るなら、せめて裏口からにしたらどうなの?』(そうよね、私なんかが正面口から入ってはいけないわよね。現に昨日、このお屋敷を出るときもフードで顔を隠したくらいなのだから)「あの、お客様……どうなさいましたか?」考え事をして黙り込んでしまったイレーネに御者が遠慮がちに声をかけてきた。「いえ、何でもありません。あの、恐れ入りますが馬車を裏口に回していただけますか?」「裏口ですか? ええ、よろしいですよ。それでは裏口に周りますね」男性御者は手綱を握りしめると、馬車の移動を始めた――**** マイスター家のフットマンとして働き始めて、ようやく1年を迎えようとしていたジャックは今とても忙しかった。「全く……お使いから戻ってみれば、誰もいないんだからな……こんな一番忙しい夕方時だっていうのに。皆一体どこにいるんだよ」ブツブツ文句を言いながら、ジャックは入り口にほど近い部屋で備品の整理をしていた。「あ〜なんだ、この棚……ホコリが溜まっているなぁ。これじゃ片付けられないじゃないか」その時――「あの〜……すみません。どなたかいらっしゃいますか?」女性の声が聞こえてきたのでジャックは部屋を出た。すると入り口の前で立っている一人の女性が目に入った。その女性とは……イレーネである。「え〜と……、どちら様です?」ジャックに尋ねられたイレーネは少しだけ悩んだ。(そう言えば、この屋敷の人たちに私のことは話してあるのかしら……万一の為に、あまり詳しい話はしないほうが良いかもしれないわね)そこで、簡単な自己紹介をすることにした。「はい、私は本日よりこちらでお世話になることになりましたイレーネと申します。どうぞよろしくお願いいたします」「イレーネ……?」見たこともない女性を見て、首を傾げるジャック。(う〜ん……見たところ
イレーネとジャックは和やかに話をしながら、2人で仕事をしていた。「それでイレーネはどこから来たんだっけ?」棚の備品を片付けながらジャックが尋ねる。「はい、私は『コルト』の町から来ました」イレーネは雑巾がけをしながら答える。「『コルト』か……随分遠くから来たんだなぁ。その若さで……両親を亡くして、しかも育ててくれた祖父まで亡くすなんて……ううっ。本当にイレーネは苦労したんだなぁ……」ジャックが目をうるませる。「ええ。でも、縁あってこちらでお世話になることが出来たので、私は運が良かったです。仕事を教えてくれるジャックさんも良い人ですし」「そ、そうか? そう言われると……何だか照れくさいな」目元を赤くするジャック。そこへホールに集められた使用人たちがゾロゾロと戻ってきた。そして一人のフットマンがジャックの姿を見て近づいてきた。「おい! ジャック、お前こんなところで何してたんだよ」「え? 何って……見ての通り仕事ですけど?」「あのなぁ、さっきまでルシアン様から大事な話があって俺たち全員ホールに集められていたんだよ!」「ええ!? そうだったんですか! 俺……お使いに行ってたので知らなかったんですよ!」ジャックは自分だけホールに行かなかったことを知り、顔が青ざめる。「全く……仕方ないなぁ。でも知らなかったなら仕方ないか……ん? ところで、あんたは何者だ?」フットマンは雑巾を握りしめているイレーネに気づいた。「はい、私は今日からこちらでお世話になることが決まりましたイレーネと申します。どうぞよろしくお願いします」「イレーネ……? イレーネ……どこかで聞いたような気がする名前だが……ハハハ。まさかな」先程ホールで集められた時に、本日イレーネ・シエラという大事な客人がこの屋敷にやってくるという話をルシアンから聞かされた。だが、エプロン姿に雑巾を手にしたイレーネがその本人だとは彼は思いもしなかったのだ。「ここで俺が、新人のイレーネに仕事を教えてあげていたんですよ」ジャックが説明する。「ふ〜ん……だが、新しいメイドが来るなんて話、聞かされていなかったがな……でも、人手が足りなかったから丁度いいか。俺はフットマンのホセ。ここの部署のリーダーを務めている。よろしくな。イレーネ」「はい、よろしくお願いします」「ホセさん。イレーネの世話なら
――午後7時、ダイニングルーム。「一体どういうことだ……? 未だにイレーネ嬢が訪ねて来ないなんて……」テーブルの前に着席し、手を組んで顎を乗せたルシアンがためいきをついた。「ルシアン様……確かに私も心配でたまりませんが、まずは夕食をお召し上がりになって下さい。よくよく考えてみれば、イレーネさんは本日ここへ来るとは話されていましたが、時間までは仰っていませんでした。もしかすると、もう間もなくこちらへいらっしゃるかも……しれませんよ?」リカルドは笑顔で声をかけるも、内心では焦りがピークに達していた。(まずいまずいまずい! これは非常にまずいぞ!! ひょっとしてここへ来る道中、何かあったのではないだろうか? イレーネさんは可愛らしい外見だし、おっとりしてはいる。もっとも言い方を変えれば、世間より少しズレている感じがある。片田舎出身であるが故に、都会に潜む悪い連中に騙されて何処かへ連れ去られてしまったのではないだろうか!? そうなったら……全てこの私の責任! ああ……今にも胃に穴が空きそうだ……)少々失礼な物言いで、イレーネの身を案じる。「何かあったのではないだろうか……?」ポツリと呟くルシアンの言葉に、思わず肩が跳ねそうになるリカルド。「落ち着いて下さい、ルシアン様。まずは紅茶でも飲んでみてはいかがですか?」胃痛に耐え、震える手でリカルドはカチャカチャと紅茶を入れ……。カチャン! 手が滑ってソーサーの上に音を立ててカップを置く。そしてそんな様子をじっと見つめるルシアン。「……リカルド」「はひ? な、何でしょう?」リカルドは思わず上ずった声で返事をする。「落ち着くのは……むしろ俺よりもお前の方ではないか?」「い、いえ。何を仰っているのですか? 私はとても落ち着いておりますよ。大丈夫です、きっともうすぐイレーネさんはこちらにいらっしゃるはずですとも……あの方を信じて待ちましょう……」まるで自分に言い聞かせるかのように語るリカルド。そこへ――「ルシアン様、夕食をお持ちしました」フットマンがワゴンを押してダイニングルームへ現れた。「何? 食事だと? こんな一大事のときに食事など出来るか……え……?」眉間に皺を寄せたルシアンはフットマンを見上げ……次に驚愕で目を見開いた。 何と、フットマンの背後にはメイド服姿のイレーネがいたからだ。彼
「イレーネ嬢……」自分のテーブルの前に料理を並べていくイレーネにルシアンは頭を抑えながら声をかけた。「はい、何でしょうか? ルシアン様」スープ皿を置いたイレーネがにっこり微笑む。「一体、その恰好は……何だ?」「あ、このメイド服ですか? これは先輩のジャックさんが用意してくれたんです。素敵なメイド服で、とても気に入りました」濃紺のロングワンピースに、フリルの付いたエプロン姿のイレーネはジャックの名前を出した。自分の名前が出たジャックは、まんざらでもない様子で給仕を務めている。「い、いや。俺が尋ねているのはそういうことでは無くてだな……」「あ、ルシアン様。今置いたこちらのスープは熱いので火傷にご注意下さいね」「ああ、ありがとう……って違う! そうじゃない!」危うくイレーネのペースに巻き込まれそうになったルシアンは、激しく首を振る。「ど、どうなさったのです? 落ち着いて下さい。ルシアン様」イレーネが見つかったことで、すっかり余裕のリカルドがルシアンに声をかける。「いいか、イレーネ嬢。俺が言いたいのは、そういうことではない。何故、君がメイドとして働いているかと言う事だ。誰かにメイドとして働くようにそそのかされたのか? ひょっとして、ジャックという者の仕業か!?」ルシアンの言葉に、ビクリとジャックの肩が跳ねる。(どうか……どうか、俺がジャックだということがルシアン様にバレませんように……!)マイスター家には大勢の使用人が働いている。そしてジャックはまだこの屋敷で働き始めて1年目。当然、ルシアンはジャックの顔を知らない。「いいえ? ジャックさんは、そのような方ではありません。とても親切な人で、丁寧に仕事を教えてくれます」少し、ズレたところのあるイレーネはルシアンの質問に見当違いな返答をする。「そうか。やはりジャックの仕業なのだな? 親切にメイド服を貸してくれたというわけか?」そこへ嚙み合わない2人の会話に、リカルドが割って入ってきた。「落ち着いて下さい、ルシアン様。ジャックがそそのかしたと疑うのは時期尚早ではないでしょうか?」リカルドがルシアンを宥めながら、ジャックに早く退散するように目配せする。「で、では私はこれで失礼致します」ジャックは、逃げるようにダイニングルームを飛び出した。自分はクビになってしまうのではないかという恐
「リカルド……夜のお勤めとは……一体どういうことだ?」ルシアンが口元に笑みを浮かべながらリカルドを見る。しかし、目は少しも笑っていない。これが一番マズイ状況であるということを、リカルドは知り尽くしている。「ル、ルシアン様……こ、これはそう! 誤解、誤解なのです!」「ほう? 誤解? 一体どんな誤解なのだ? 詳しく教えて貰おうじゃないか? だがその前に……」ルシアンはイレーネに視線を移す。「イレーネ嬢」「はい、何でしょうか? ルシアン様」「もう、メイドの仕事はしなくていい。とりあえず、今日は休むといい。リカルドに客室を案内させよう」「はい、ルシアン様!」(やった! この場から逃げられる!)リカルドは喜々として返事をするが、次に告げられたリカルドの言葉に冷や水を浴びせかけられる。「いいか? イレーネ嬢を客室に案内したら、ここへ戻ってくるように。分かったか?」ジロリと睨みつけられるリカルド。「は……はい! で、ではイレーネさん。参りましょう」「はい。では失礼致します、ルシアン様」イレーネは立ち上がると、挨拶した。「ああ、明日また会おう。……リカルド」「はい! ルシアン様!」リカルドは背筋をピンと伸ばす。「……イレーネ嬢の誤解をきちんと、解くのだぞ。責任を持ってな」「も……勿論です」こうして、奇妙な動きを見せるリカルドに連れられてイレーネはダイニングルームを後にした。「……全く」ダイニングルームに1人残ったリカルドため息をつき、すっかり冷めてしまった料理を口にした。「……生ぬるいスープだ……」そして再びため息をついた――****1時間後――「ルシアン様、戻りました……」ビクビクしながらリカルドがルシアンの待ち受けるダイニングルームに戻ってきた。すっかりテーブルの上が片付けられ、今はルシアンの飲んでいるワインとグラスだけが置かれている。「ああ、戻ったか。イレーネ嬢に客室を用意したのか?」「ええ、勿論です! 前回よりも素晴らしい客室にご案内致しました! メイド長にもイレーネさんのことを伝えてまいりました。それに使用人部屋に置かれた荷物も客室へ運びました!」リカルドは説教を恐れ、媚びを売るように揉み手をしながら返事をする。「そうか……」ルシアンは手元のワインを煽るように一気に飲み干すと、乱暴にグラスを置いた。
「一体何なんだ? その募集要項は。 二十四時間体制だが、基本夜の勤務は殆ど無い? けれど夜勤が入る場合は別途給金を上乗せだとは。このような内容では誰だって勘違いするに決まっているだろう!? お前は俺を獣扱いしているのか! 一体どういうつもりでこんなことを書いたんだ!」ルシアンは肩で荒い息を吐きながらまくしたてた。「そ、それはですね。ほら、アレです。時には王侯貴族の親睦を深める目的で夜会などが開かれることがあるではありませんか?」「ああ、あるな。それがどうした?」「そうなると、結婚しているのであれば夫婦そろって出席を求められるのは当然のことですよね?」「確かにその通りだが……まさかその意味合いで二十四時間体制、時には夜勤が入ると書いたのか!?」ルシアンはワインの瓶を掴むと、勢いよくグラスに注ぐ。「はい、その通りです……」「な、何てことだ……イレーネ嬢が勘違いするのは当然じゃないか! これでは契約妻に夫婦生活を強要するような最低な男としてとられてしまったに決まっている!」ルシアンはグラスを握りしめると、まるで水のようにワインを一気に飲み干した。「落ち着いて下さい。ルシアン様、そんなに乱暴な飲み方ではお身体に障ります」「誰のせいで、落ち着けないと思っているんだ! 絶対、彼女は俺に不信感を抱いているに違いない……何がまた明日会おうだ! もう顔向けできないじゃないか……」どこまでも生真面目なルシアン。酔いがすっかり回っていた彼はリカルドにイレーネの誤解を解くように説明したことなど忘れていた。「それなら大丈夫です、ご安心ください。イレーネ嬢は決して怪しい意味合いではとらえておりませんでした。流石は私の見込んだ女性のことだけありました!」「何だと……? 一体それはどういう意味だ……?」顔を赤く染め、半分目が座っているルシアンがリカルドを見上げた。「はい、イレーネさんは夜の夫婦生活のことを想定してはいなかったのですよ。メイドとしての夜勤があるのかと思っていたのです。それで、あのようなことを尋ねられたのですよ」「そうだったのか……? そう言えば、イレーネ嬢は契約妻兼メイドの仕事をするものだと勘違いしていたな……」「ええ、そうです。なので、誤解を解くまでも無かったのですよ。何しろ初めから誤解されていたのですから」「初めから誤解だったから、誤解を
翌朝7時。リカルドはイレーネの宿泊している客室の前に来ていた。「さて……イレーネさんは起きていらっしゃるだろうか……?」コホンと咳ばらいをすると、早速扉をノックする。――コンコン「イレーネさん、起きていらっしゃいますか?」すると軽い足音が扉に近づき、音を立てて開かれた。「おはようございます、リカルド様」白いブラウス。モスグリーンのベストにロングスカート姿のイレーネが姿を見せた。「はい、おはようございます。……もう、すっかり朝の支度は出来ていたのですね?」地味な服装のイレーネを見つめながらリカルドが挨拶する。「はい、そうです。5時に起床しました」「ええ!? 5、5時ですか!? 何故そんなに早く起きられたのですか?」あまりにも早い時間にリカルドは目を丸くした。「はい、いつもの習慣でつい目が覚めてしまったのです。『コルト』に住んでいた頃は朝食の準備があった為に毎朝5時おきだったので」「朝食の準備……? 一体何のことでしょう。とりあえず歩きながらその説明を聞かせていただけますか? ダイニングルームへご案内しますので」「え? ダイニングルームへですか?」「はい、そうです。そこで……」「私が給仕を務めればいいのですね?」「は? い、いえ! とんでもありません! イレーネさんはルシアン様の妻になる方ですよ!? そんな真似させられるはずないじゃありませんか!」そのとき――ガタッ!!背後で大きな音が聞こえ、イレーネとリカルドは振り向いた。しかし、そこにあるのは大きな観葉植物のみで人の気配は無い。「……妙ですね? 今音が聞こえた気がしたのですが……」リカルドが首を傾げる。「はい。私も聞こえましたが……気にしても始まらないので、ダイニングルームへ行きませんか?」イレーネの頭の切り替えは早い。「そうですね。ではダイニングルームへ参りましょう。先ほど、何故毎朝5時に起きていたのかお話を聞かせて下さい」「はい、リカルド様」そして2人は並んで歩きながら、ダイニングルームへ向かった――****「おはようございます、ルシアン様」ダイニングルームには一足先にルシアンが待っていた。「おはよう、イレーネ嬢。昨夜はゆっくり寝られたか?」「はい、あんなに素敵なお部屋を貸して頂けるなんて夢みたいでした。私にはもったいない限りです」ニコニコ
――21時半「何ですって!? それでレセプション会場から、お一人で帰ってこられたのですか!?」書斎にリカルドの声が響き渡る。「大声を出さないでくれ。ただでさえ、疲れているのに……」ため息をつきながら、ネクタイを緩めるルシアン。「大声を出すなと言う方が無理です。一体、何故そんなことになってしまわれたのです?」「それはこちらが聞きたい話だ! ベアトリスがあの会場に現れることもこっちは知らなかったのに! 大体、何故彼女が『デリア』に来ているんだ?」ソファに沈み込むようにルシアンは腰掛けた。「……ルシアン様。本気でそのようなことを言われているのですか?」「何のことだ?」「ベアトリス様が今、オペラ公演の為に『デリア』に来ていたことですよ! それだけではありません。イレーネさんがブリジットさんと観に行った公演がそのオペラだったのですから!」リカルドはヤケクソの様に大声で喚いた。「な、何だって!! そうだったのか!?」「ええ、そうですよ。だいたい、ルシアン様がいけないのですよ? 今まであまりにもイレーネさんに無関心過ぎたからです。ちゃんと目を向けていれば、事前に気づいて今夜のようなヘマはやらかさずにすんだのではありませんか!?」「リ、リカルド……」「おまけに、何故ひとりで帰ってこられたのです? お友達のところに泊まると書かれていたのなら、お迎えに行ってさしあげればよろしかったではありませんか?」「だ、だが……夜も遅いし、それに本当にブリジット嬢の家に行ってるかどうかも……」「そんなことを言ってる場合では無いでしょう!? はぁ……もう、結構です。明朝、私が直にブリジット様のお宅を訪問してみることにします」ため息をつくリカルド。「い、いや。それなら俺が……」「いいえ! もうルシアン様は動かれないで下さい! それに……きっと、明日は大変なことになるでしょうからね」「あ……」リカルドに指摘され、ルシアンは再び顔が青ざめるのだった――****――今から約2時間程前に遡る。「イレーネさん。僕の家に到着しましたよ」馬車の中でボンヤリしていたイレーネは突然ケヴィンに声をかけられて我に返った。「え? 本当ですか?」「ええ。降りましょう」ケヴィンは扉を開けるとイレーネに手を差し伸べた。「どうもありがとうございます」ケヴィンの手を借りて、
会場に戻ると、もう既にうるさい記者達の姿はいなくなっていた。「イレーネ……どこだ……?」ルシアンは必死で探し回るも、何処にも姿は見えない。するとそこへ声をかけてくる人物がいた。「マイスター伯爵」「あ、あなたは……ガストン卿!」彼は重要な取引先企業の社長だった。「一体、先程の騒ぎは何だね? 随分記者達に取り囲まれていたようだが……まさか君の婚約者が、あの世界の歌姫のベアトリス令嬢だとは思わなかったよ」「いえ、彼女は……私の婚約者ではありません。2年前に終わった仲です。今の婚約者は別の女性です。……美しくて、控えめながらも朗らかな女性で……とても大切な存在です」ルシアンの脳裏に、笑顔を見せるイレーネの姿が浮かぶ。「マイスター伯爵……余程その女性のことを愛されているのですな」「そうです、その彼女とはぐれてしまって……なので、申し訳ございません! 彼女を……イレーネを捜さなくてはならないので! 失礼します!」ルシアンはそれだけ告げると、急いでその場を後にした。(ガストン卿も、あの騒ぎを知っていた……ということはイレーネにも見られてしまった可能性がある!)そのことを思うと、ルシアンの胸は痛んだ。(一緒に会場に入り、婚約者として紹介されるはずだったのに……あんな場面を見せられてはどれだけ……傷ついたことだろう……!)そこで、ふとルシアンは足を止めた。「そうだ……イレーネは……最初から俺のことを単なる契約相手としてしか見てくれてはいなかったんだ……だったら、何とも思うはずは……」急に虚しさが胸に込み上げてくる。(それでも今はイレーネを捜して……きちんと説明しなければ! そして今更だが……自分の本当の気持ちを彼女に告げなければ……!)再びルシアンは走り始めた。けれど会場内をくまなく探すも、イレーネは見つからない。「はぁ……はぁ……い、一体イレーネは何処に行ったんだ……?」もはや、レセプションどころではなかった。以前のルシアンなら、イレーネを後回しにして挨拶周りをしていたかもしれない。だが、今自分の心を占めているのはイレーネだけだった。「こんなに捜してもいないということは……先に帰ってしまったのだろうか……?」だが、勝手に帰るような性格の女性ではないことをルシアンは理解している。「そうだ、受付に行って聞いてみよう」思い立っ
ルシアンはイレーネがケヴィンと供に会場を去ったことを知らぬまま、大勢の人々からもみくちゃにされていた。しかも運の悪いことに、新聞記者達も数多く集まっていたのだ。「ベアトリスさん! こちらの方が恋人なのですか!?」「お相手は以前から噂のあったカイン氏ではなかったのでしょうか!?」「お二人は遠距離恋愛中だったということですね?」記者達の不躾な質問にルシアンは反論した。「はぁ!? さっきから君たちは一体何を言ってるんだ! 俺と彼女は……!」すると、場馴れしたベアトリスが笑顔でルシアンの口元を押さえた。それだけで記者たちは歓声を上げる。「皆様、どうか落ち着いて下さい。彼はルシアン・マイスター伯爵。一般人ですので、この様な取材には慣れていないのですから」「ベアトリス! 君は一体……!」なおも反論しようとすると、ベアトリスは一歩前に進み出てきた。「私からご説明致します。私と彼は恋人同士でした。ですが2年前に理由あって離れ離れになってしまいました。ですが、私はずっと彼を忘れたことはありませんでした。私は彼に対する想いを舞台で歌い、演じてきたのです。今回『デリア』でオペラを上演することになり、こうして彼に再会出来たのも運命だと思っております!」世界の歌姫として名を馳せるベアトリスの声は会場内に良く響き渡った。当然、ルシアンが今回挨拶を交わす予定だった取引先の社長達の耳にも。もはや、ルシアンは顔面蒼白になっていた。(な、何てことをしてくれたんだ……! もうこれ以上……我慢できない!)「来るんだ! ベアトリス!」ルシアンはベアトリスの腕を掴むと、強引に人混みをかき分けて逃げ出した。「通してくれ! そこをどいてくれ!」「ちょ、ちょっと! ルシアンッ!?」「あ! 逃げないで下さい!」「まだ聞きたいことが沢山あるんですよ!」ルシアンはベアトリスを連れて追ってくる記者たちを必死にまくと、レセプション会場の中庭まで逃げてきた。「はぁ……はぁ……こ、ここまで逃げてくればいいだろう……」息を切らせながらルシアンは会場を振り返った。「アハハハハハハ……ッ。懐かしいわね。私達、良くこうしてゴシップ記者から逃げ惑っていたのを思い出さない?」ベアトリスは面白そうに笑う。「笑い事じゃない、それに生憎俺は思い出話に浸る予定なんかないんでね。一体どういうつ
「凄い騒ぎですね……あれ? あの女性……歌姫のベアトリス令嬢だ。隣に立っている男性はどなたでしょうね?」ケヴィンは騒ぎの方を見つめながら首を傾げる。「ルシアン……様……?」イレーネは今の状況が理解出来ずに呆然と立ち尽くしていた。「イレーネさん? どうかしたのですか?」ケヴィンがイレーネの様子がおかしいことに気付き、心配そうに声をかけてきた。「い、いえ……まさかベアトリス様がいらっしゃることに驚いているだけです」そう、本当にイレーネは驚いていたのだ。「ええ、僕も驚いていますよ。まさか世界の歌姫がこのレセプションに訪れるなんて……それにしても凄い騒ぎですね。でもそれも当然かも……男性と一緒にいるのですから。先程、婚約者が……とか騒いでいましたよね?」その言葉にイレーネの肩がピクリと動く。今やベアトリスとルシアンの周囲は物凄い人だかりで、2人の姿すら確認できない状態だった。それが何だかイレーネは寂しくて仕方なかった。「あ、そういえばイレーネさんは婚約者の方といらっしゃっていたのですよね? 待ち合わせしていたのではありませんか?」「いいえ……婚約者は……たった今いなくなりました」ケヴィンの質問にポツリと答える。「え? いなくなった? それはどういうことです?」「あ、あの。つ、つまりですね。私は彼の婚約者の代理として、出席しました。どうしてもお相手の女性が時間に間に合わないということで……。彼は正式に招待状をいただいておりまして、1人で入場しにくいと相談されました。そこで私が代理で一緒に会場入りしたのですが……」イレーネはそこで一度言葉を切る。「イレーネさん……?」(どうしたのだろう? こんなに寂しげな表情のイレーネさんは初めてだ……)「今、その必要は無くなりました。本当の婚約者がいらっしゃったようなので……ということで、私は帰ることにします」「え? 帰るのですか?」その言葉に驚くケヴィン。「はい。私はもう……必要ありませんので」「ならご自宅まで送りますよ。あの自宅でよろしいのですよね?」ケヴィンはイレーネが心配でならなかった。「え、ええ……」頷きかけ、イレーネは気付いた。(そうだわ……あの家に置かれた写真はベアトリス様だった。つまり、あの家の本来の持ち主はベアトリス様……。リカルド様と結んだ契約は私が1年間ルシアン様
「ま、まさか……ベアトリス? 君なのか!?」ルシアンの顔に驚きの表情が浮かぶ。「ええ、そうよ。2年ぶりね……会いたかったわ。本当に」それは本心からの言葉だった。だが、ルシアンの顔は曇る。「今更……何故俺の前に現れたんだ? 2年も経って……あんな手紙だけで行き先も告げずにいなくなったのに?」「仕方なかったのよ。あの時は色々あったから……だけど、その態度は何? こっちはどれほどあなたを思っていたのか知りもしないくせに。私を責めて、挙げ句にさっき一緒にいた女性は誰なのよ!」自分の立場も忘れて、ヒステリックな声をあげるベアトリス。「何だって? 彼女を見たのか?」ルシアンは眉を潜めた。「ええ、見たわ。とってもチャーミングな女性だったわね? 笑顔がとても素敵だったわ……彼女の悲しい顔が見たくないなら、場所を変えましょう。もしこの場に彼女が戻ってきたら、私何を言い出すか分からないわよ?」「……脅迫するつもりか?」その言葉に、ベアトリスの美しい顔が歪む。「聞き捨てならない言葉ね? かつては、あんなに愛し合った恋人同士だったというのに。何なら彼女に教えてあげましょうか? 私達がこれまでどんな風に愛し合ってきたか……」「やめてくれ!」ルシアンは声を荒げた。「……分かった、場所を移動しよう……」「ええ、懸命な判断ね。それじゃ別の場所へ行きましょう?」ベアトリスは美しい笑みを浮かべると、背を向けて歩き始めた。「イレーネ……」ルシアンはポツリと呟き、イレーネがいる方向を振り返った。(すまない、イレーネ。だが……どうしても君を傷つけたくは無いんだ……)ルシアンは覚悟を決めて、ベアトリスの後をついて行くことにした。ときに激しい情熱をぶつけてくるベアトリス。このままイレーネと鉢合わせすれば、気の強いベアトリスが何をしでかすか分からない。(昔は、彼女のそういう気の強いところが好きだったが……)けれど、今のルシアンはイレーネと過ごす時間が何よりも大切になっていた。明るく天真爛漫な彼女。それでも時折、自分だけに垣間見せる弱さ。そんなイレーネを守ってやりたい。彼女を心の底から笑える様にさせてあげたい。それだけ大きな存在になっていたのだ。(すまない、イレーネ。ベアトリスときっちり話をつけたら、必ず迎えに行くから……どうか、待っていてくれ……!)け
約40分前のこと――顔にヴェールをかぶせ、イブニングドレス姿のベアトリスがレセプション会場に入場した。「ベアトリス、君は今や世界的に有名な歌姫なんだ。時間になるまではヴェールを取らない方がいい」一緒に会場入りしたカインが耳打ちしてきた。「ええ。大丈夫、心得ているわ」ベアトリスは周囲を見渡しながら返事をする。「一体さっきから何を捜しているんだ?」「別に、何でも無いわ」そっけなく返事をするベアトリスにカインは肩をすくめる。「やれやれ、相変わらずそっけない態度だな。もっともそういうところもいいけどな」「妙な言い方をしないでくれる? 言っておくけど、私とあなたは団員としての仲間。それだけの関係なのだから」ベアトリスが周囲を見渡しているのには、ある理由があった。本当は、このレセプションに参加するつもりはベアトリスには無かった。だが、貴族も参加するという話を耳にし、急遽出席することにしたのだ。(今夜のレセプションは周辺貴族は全て参加しているはず……絶対にルシアンは何処かにいるはずよ……!)ルシアンを捜すには、隣にいるカインが邪魔だった。そこでベアトリスは声をかけた。「ねぇ、カイン」「どうしたんだ?」「私、喉が乾いてしまったわ。あのボーイから何か持ってきてもらえないかしら?」「分かった。ここで待っていてくれ」「ええ」頷くと、カインは足早に飲み物を取りに向かった。「行ったわね……ルシアンを捜さなくちゃ」ベアトリスは早速ルシアンを捜しに向かった――「あ……あれは……ルシアンだわ!」捜索を初めて、約10分後。ベアトリスは人混みの中、ついにルシアンを発見した。「ルシアン……」懐かしさが込み上げて近づこうとした矢先、ベアトリスの表情が険しくなる。(だ、誰なの……!? 隣にいる女性は……!)ルシアンの隣には彼女の知らない女性が立っていた。金色の美しい髪に、人目を引く美貌。品の良い青のドレスがより一層女性の美しさを際立たせていた。彼女は笑顔でルシアンを見つめ、彼も優しい眼差しで女性を見つめている。それは誰が見ても恋人同士に思える姿だった。「あ、あんな表情を……私以外の女性に向けるなんて……!」途端にベアトリスの心に嫉妬の炎が燃える。(毎日厳しいレッスンの中でも、この2年……私は一度も貴方のことを忘れたことなど無かったのに
馬車が到着したのは、デリアの町の中心部にある市民ホールだった。真っ白な石造りの大ホールを初めて目にしたイレーネは目を丸くした。「まぁ……なんて美しい建物なのでしょう。しかもあんなに大勢の人々が集まってくるなんて」開け放たれた大扉に、正装した大勢の人々が吸い込まれるように入場していく姿は圧巻だった。「確かに、これはすごいな。貴族に政治家、会社経営者から著名人まで集まるレセプションだからかもしれない……イレーネ。はぐれないように俺の腕に掴まるんだ」ルシアンが左腕を差し出してきた。「はい、ルシアン様」2人は腕を組むと、会場へと向かった。 「……ルシアン・マイスター伯爵様でいらっしゃいますね」招待状を確認する男性にルシアンは頷く。「そうです。そしてこちらが連れのイレーネ・シエラ嬢です」ルシアンから受付の人物にはお辞儀だけすれば良いと言われていたイレーネは笑みを浮かべると、軽くお辞儀をした。「はい、確かに確認致しました。それではどう中へお入りください」「ありがとう、それでは行こうか? イレーネ」「はい、ルシアン様」そして2人は腕を組んだまま、レセプションが行われる会場へ入って行った。 「まぁ……! 本当になんて大勢の人たちが集まっているのでしょう!」今まで社交界とは無縁の世界で生きてきたイレーネには目に映るもの、何もかもが新鮮だった。「イレーネ、はしゃぎたくなる気持ちも分かるが、ここは自制してくれよ? 何しろこれから大事な発表をするのだからな」ルシアンがイレーネに耳打ちする。「はい、ルシアン様。あの……私、緊張して喉が乾いておりますので、あのボーイさんから飲み物を頂いてきても宜しいでしょうか?」イレーネの視線の先には飲み物が乗ったトレーを手にするボーイがいる。「分かった。一緒に行きたいところだが、実はこの場所で取引先の社長と待ち合わせをしている。悪いが、1人で取りに行ってもらえるか? ここで待つから」「はい、では行って参りますね」早速、イレーネは飲み物を取りにボーイの元へ向かった。「すみません、飲み物をいただけますか?」「ええ。勿論です。どちらの飲み物にいたしますか? こちらはシャンパンで、こちらはワインになります」 ボーイは笑顔でイレーネに飲み物を見せる。「そうですね……ではシャンペンをお願い致します」「はい、
ルシアンが取引を行っている大企業が開催するレセプションの日がとうとうやってきた。タキシード姿に身を包んだルシアンはエントランスの前でリカルドと一緒にイレーネが現れるのを待っていた。「ルシアン様、いよいよ今夜ですね。初めて公の場にイレーネさんと参加して婚約と結婚。それに正式な次期当主になられたことを発表される日ですね」「ああ、そうだな……発表することが盛り沢山で緊張しているよ」「大丈夫です、いつものように堂々と振る舞っておられればよいのですから」そのとき――「どうもお待たせいたしました、ルシアン様」背後から声をかけられ、ルシアンとリカルドが同時に振り返る。すると、濃紺のイブニングドレスに、金の髪を結い上げたイレーネがメイド長を伴って立っていた。その姿はとても美しく、ルシアンは思わず見とれてしまった。「イレーネ……」「イレーネさん! 驚きました! なんて美しい姿なのでしょう!」真っ先にリカルドが嬉しそうに声を上げ、ルシアンの声はかき消される。「ありがとうございます。このようなパーティードレスを着るのは初めてですので、何だか慣れなくて……おかしくはありませんか?」「そんなことは……」「いいえ! そのようなことはありません! まるでこの世に降りてきた女神様のような美しさです。このリカルドが保証致します!」またしても興奮気味のリカルドの言葉でルシアンの声は届かない。(リカルド! お前って奴は……!)思わず苛立ち紛れにリカルドを睨みつけるも、当の本人は気付くはずもない。「はい、本当にイレーネ様はお美しくていらっしゃいます。こちらもお手伝いのしがいがありました」メイド長はニコニコしながらイレーネを褒め称える。「ありがとうございます」その言葉に笑顔で答えるイレーネ。「よし、それでは外に馬車を待たせてある。……行こうか?」「はい、ルシアン様」その言葉にリカルドが扉を開けると、もう目の前には馬車が待機している。2人が馬車に乗り込むと、リカルドが扉を閉めて声をかけてきた。「行ってらっしゃいませ、ルシアン様。イレーネさん」「はい」「行ってくる」こうして2人を乗せた馬車は、レセプション会場へ向かって走り始めた。「そう言えば私、ルシアン様との夜のお務めなんて初めての経験ですわ。何だか今から緊張して、ドキドキしてきました」イレーネ
「こちらの女性がルシアンの大切な女性か?」イレーネとルシアンが工場の中へ入ると、ツナギ服姿の青年が出迎えてくれた。背後には車の部品が並べられ、大勢の人々が働いていた。「え?」その言葉にイレーネは驚き、ルシアンを見上げる。しかし、ルシアンはイレーネに視線を合わせず咳払いした。「ゴホン! そ、それでもう彼女の車の整備は出来ているのだろうな?」「もちろんだよ。どうぞこちらへ」「ああ、分かった。行こう、イレーネ」「はい、ルシアン様」青年の後に続き、イレーネとルシアンもその後に続いた。「どうぞ、こちらですよ」案内された場所には1台の車が止められていた。何処か馬車の作りににた赤い車体はピカピカに光り輝いており、イレーネは目を輝かせた。「まぁ……もしかしてこの車が?」イレーネは背後に立つルシアンを振り返った。「そう、これがイレーネの為の新車だ。やはり、女性だから赤い車体が良いだろうと思って塗装してもらったんだ」「このフードを上げれば。雨風をしのげますし、椅子は高級馬車と同じ素材を使っていますので座り心地もいいですよ」ツナギ姿の男性が説明する。「ルシアン様の車とはまた違ったデザインの車ですね。あの車も素敵でしたが、このデザインも気に入りました」イレーネは感動しながら車体にそっと触れた。「まだまだ女性で運転する方は殆どいらっしゃいませんが、このタイプは馬車にデザインが似ていますからね。お客様にお似合いだと思います」「あの、早速ですが乗り方を教えてください!」「「え!? もう!?」」ルシアンと青年が同時に驚きの声をあげた――**** それから約2時間――「凄いな……」「確かに、凄いよ。彼女は」男2人はイレーネがコース内を巧みなハンドルさばきで車を走らせる様を呆然と立ち尽くしてみていた。「ルシアン、どうやら彼女は車の運転の才能が君よりあるようだな?」青年がからかうようにルシアンを見る。「あ、ああ……そのようだ、な……」「だけど、本当に愛らしい女性だな。お前が大切に思っていることが良くわかった」「え? な、何を言ってるんだ?」思わず言葉につまるルシアン。「ごまかすなよ。お前が彼女に惚れていることは、もうみえみえだ。女性が運転しても見栄えがおかしくないようなデザインにしてほしいとか、雨風をしのげる仕様にして欲しいとか色々